りたいあーずらいふ

定年を迎えて晴れて自由になった日常を語ります。

「資本主義の終焉と歴史の危機」を読んでみた

仰々しいタイトルですが、読書の記録です。

以前にも書いたことがありますが、本棚にはカバーを掛けたまま、そのまま放置してある本が何冊かあります。中には買ったことすらも忘れてしまっている本も。

そんな本の中から一冊を開いてみました。

「資本主義の終焉と歴史の危機」という題名、2014年に発売された新書です。もう随分古い本になっていますが、古さを感じさせませんでした。

 

これを買って読んでみようと思ったのは、今から50年ほど前に発表されたローマクラブの「成長の限界」というレポート、本文ではないですが要約された記事をネットで見たのが頭に残っていたからなんでしょう。思い出してきました。

 

要するに、地球という限られた環境下では、人口・経済が無限に拡大することは無理であり、制御なき成長は資源枯渇や環境破壊を経て社会の崩壊を招く。したがって、人類は持続可能な発展の道を選ばなければならない。というもので、今のSDGsの源流になっているともいえます。

 

環境破壊の問題も大事なことではありますが、産業革命や技術革新などを経て、人々の生活は豊かになってきているのですが、それは永遠に続けられるものなのか、経済成長は永遠に続けられるものなのか、というのは素朴な疑問として、ずっと思っていました。

 

この本はそうした疑問を解りやすく解き明かしてくれました。

資本主義とは、資本を投下して、その利子で自己増殖していくのが本質なのですが、近年はその利子率が低下の一方を辿っています。これは、資本を投入してもリターンを得られる場所がなくなりつつあることを示しています。

 

今までそれをもたらしてきたのは、地理的空間と物的空間の拡大、つまりフロンティアの存在でした。中国を始めとするアジア諸国などのフロンティアは商品・サービスの販売先だけでなく、資源の供給地としての役割も果たしていましたから、近代化と共に資源を従来のように買い叩くことも出来なくなってきました。かつてのフロンティアはいまや新興国というジャンルで、同じようなフロンティアを必要とする立場になっていますが、最後のフロンティアであるアフリカ諸国に中国を始めとする各国が群がっています。アフリカ諸国が新興国となる時代には地球上にはもはやフロンティアは存在しません。

しかし、アメリカは、IT(情報技術)と金融の自由化を組み合わせて、新本主義の延命を図りました。世界中の人が金融市場に容易に参加できるようになり、債権の証券化など、様々な金融手法で世界中の余剰マネーをウォール街に引き寄せ、途方もない金融資産を作り出しました。

 

こうした金融資産は実体がない、つまりは、、企業の利益や実需といった現実の経済活動に基づかず、期待や投機マネーだけで膨らんでいる状態なので、成長もないのに実態がない状態で価格だけが上昇する、すなわちバブルが発生すると、それを買った人の資金力が耐えきれなくなって売らざるを得なくなり、バブルは崩壊する。この繰り返しが発生するサイクルが短くなってきています。

 

地球という限られたテーブルの上にある、限られた一枚のピザを世界中の人たちが取り合っている状況、何らかの方法でテーブルを広げるか、皆で分け与えるためのうまい方法を考えるのか、力ずくで奪い取る輩が増えてくるのか。

残念ながら、最後の一つに向かって各国がしのぎを削り始めています。

 

さらに言えば、金融バブルで利益を得た層(資産を持つ者)は、崩壊後も資産を防衛・再投資できるのに、そうでない、労働者や中間層は失業・負債・生活不安に直撃され、「資本を持つ層」と「労働しか持たない層」の格差が拡大します。

 

中国、ロシアなどの専制国家は別として、皮肉なことに、その格差拡大を利用して、パイの奪い合いで主導権を握ろうとする人たちが資本主義経済を引っ張ってきた各国で現れています。

既存政権・エリート層への不信感 、社会保障や再分配をめぐる対立の激化、外国人排斥・保護主義などナショナリズムの強まり、今起きていることは、1929年の大恐慌後にナチスが出てきた時代背景とよく似ていると言われています。

SNSがその動きを助長しているとも言われますが、それにブレーキをかける良心として活用することはできないものでしょうか。

それとも、新しい経済秩序は生まれるのでしょうか?

慣れないことを考えると頭から煙が出てきそうですね。