旧街道を歩いたり、自転車で走ったりするのが一つの趣味なので、少し前、たまたまネットで検索していたら、名古屋近辺の街道について書かれたエッセイのページに辿り着きました。
詳しく読んでみると、随分と昔に住んでいた場所が、鎌倉街道沿いであることを再発見しました。ホームページの管理者を見ると、大塚耕平と書かれていました。どこかで聞いた名前だなと思ったら、参議院議員(当時)の現役代議士であることを知り、意外な感じがしました。
政治家のセンセイといえば、語弊があるかもしれませんが、世俗の代表みたいなイメージが強く、こういう人文科学的な世界とは無縁な感じがしたからです。
年齢はほど同じ、歩んできた道は雲泥の差があるのですが、なんか親近感とまではいきませんが、記憶に残っていました。
まもなくして、大塚氏は参議院議員を辞め、名古屋市長選に立候補という道を辿りましたが、そのことについては、本題から外れますので、ひとまず置いておきます。
そんなわけで、選挙期間中、たまたま図書館で郷土史のコーナーでこの本を見かけたので、久しぶりに本を借りることにしました。
尾張という土地は、信長、秀吉、家康(愛知県全体を含まれば)を配したにも関わらず、政治の中心になることは無かったのですが、古代から都と東国、鎌倉、江戸をつなぐ街道の要所であり、街道の発展とともに社寺、城郭、町の歴史が形成されてきました。
東海道の宿場町であったことは言うまでもないですが、中山道に繋ぐための脇街道としての美濃街道、上街道、下街道などが紹介されていますが、特に美濃街道は名古屋と清州を結ぶ古くからの道で、信長が若かりし頃に悪童を引き連れて駆けずり回った道らしいです。
尾張地方の旧街道はほとんど踏破しているので、おおよそのことは知っていましたが、改めてその沿線にまつわる歴史を知ったあとに歩いたほうが楽しかったに違いありません。
また、名古屋城下町の地割の話など、職場の近くの地名が出てきて興味深く読んでいました。
名古屋市の中心部は、広い道路で格子状にきれいな道割になっていますが、それは江戸時代に始まった訳なんですね。もっとも、道は今ほど広くはないものの、広い区画と通りの名前は昔のまま今も残っています。
一区間の中心にお寺や中庭的な公共の場所があり、「会所(かいしょ)」と呼ばれたそうです。
名古屋では、狭い路地のことを昔から「閑所(かんしょ)」と呼ぶのですが、そこに入る狭い路地が狭かったので、それが訛って、かんしょと呼ぶようになった、ということもこの年になって初めて知りました。
もっともこの地域以外の人にはピンとこない内容かもしれませんね。
最後の方に、尾張藩と幕末史の関係が書かれています。
名古屋城のある尾張藩は、元々、徳川御三家なので、徳川を守る立場、いわゆる佐幕的な立場なのはいうまでもないですが、特に御三家筆頭という立場で、否応なく幕末の動乱に巻き込まれます。
これも初めて知ったのですが、尾張西部の美濃、今の地名でいう輪之内当りに、高須藩という支藩があり、これは尾張徳川家の御連枝、つまり、家が途絶えないようにするための分家で、徳川本家でいう尾張・紀州・水戸の三家みたいなもの、つまり、御連枝の御連枝。ここの藩主は松平家。いわゆる徳川の譜代ですね。
実は、尾張藩の14代藩主徳川慶勝、15代藩主徳川茂徳はここの出身で兄弟。
さらに、会津藩主で京都守護職になり、徳川の人身御供のような形になった松平容保、それに桑名藩主で京都所司代として同じような道を辿った松平定敬、この二人も兄弟だったんですね。この二人のことは良く歴史小説でも出てきますので知っていました。
しかし、四兄弟であることは初めて知りました。
尾張藩は、立場上、佐幕派の最先峰として担ぎ上げられましたが、尾張藩の藩是として、初代藩主が勤王思想を持っていたことから、最後の最後で、官軍に加わることになりました。
いわゆる鳥羽伏見の戦いで、錦旗を前にして、敵前逃亡した徳川慶喜もそうですが、尾張藩のこの動きが、どちらにつくか動向を伺っていた諸藩に大きな影響を与えたと言われています。
岩倉具視や大久保利通が策謀した、倒幕の密勅、錦旗がトリガーとなって、戦力では、幕府軍優勢の戦況がひっくり返り、戊辰戦争~明治維新という歴史が作られていく訳ですが、筆者は、最後に、こうした勝者によって作られた歴史、「薩長史観」はいま一度、検証すべきではないか、と提案しています。
私が最初に歴史に興味を持ち始めたのが、司馬遼太郎さんの作品を通じてなので、どっぷり薩長史観に侵されているのかもしれません。
「坂の上の雲」「竜馬がゆく」「翔ぶが如く」など、読み漁った時期もありました。
しかし、最近になって、「昭和史」などの著者である半藤一利さんの本や、ちょっと眉唾なところもありますが、原田伊織さんの本を読んでから、意外な歴史の側面を見て、必ずしも維新は必ずしも賛美するばかりのものでは無かろうと、暗黒の昭和史につながっていく部分もこれから検証されなければならないと思います。
最後になりますが、筆者は、各党相乗りの支援を受けながらも、劇場型の政治家と言える前市長河村たかし氏の後継候補に大差で敗れました。
ネットの時代で、SNSによって選挙が左右される中で、古い世代の政治家とみなされた訳ですね。筆者の主張は必ずしも極端ではなく、調整型の政治家というイメージを持たれたのかもしれません。
でもネットの時代だからこそ、ネットの極端な主義主張に振り回されることなく、色んな面から物事をみて判断していくことが一層必要になるんでしょうね。