先日、親戚に不幸があり、通夜と葬儀に参列してきました。
歳を重ねるに連れて、こうした場に出ることが否応なく増えてきます。
通夜、葬儀、初七日法要と都合三回のお経を聞くことになりました。
お経の内容もそれぞれ違うのでしょうが、三回とも読経をされる和尚さんも違っていたことに気づきました。
最近は檀家になっていない家庭も増えており、そうした場合は、葬儀場お抱えか、お坊さんを手配する専門の企業が手配する僧侶が読経する、という話は聞いたことがあります。
しかし、全て別の僧侶というのは、初めての経験のような気がしますが、企業派遣の場合はそうなるのでしょうね。
確か親戚の家は、近所の寺にお墓があるのでそこの檀家になっているというような話は聞いたことがあります。
これで代が変わったということで檀家を辞めるのか、たまたま都合が付かなかったまでは判りません。
今までそんなに多数の葬式に出たわけではありませんが、通夜や葬儀、初七日法要で、読経の後に僧侶が何等かの話(法話)をされることはあまり無かったような気がします。
檀家以外の僧侶の場合は、法話をすることはおそらくないとは思います。一定の人間関係が無いと、そうした話もしにくいことは想像できます。
檀家の僧侶の場合はどうなのでしょうか?
少なくとも、自分の父親の葬儀の時は、そういった話はありませんでした。月命日やお盆、何周忌とかの読経のあとにも一度もそうした話を聞いたことはありません。せいぜいが世間話で、出したお菓子を食べて早々に帰ります。
お布施が少ないのかもしれません。でも、あまりお金の話をするのは気が引けますが、葬儀の時は、僧侶本人だけでなく、他に2名も引き連れて鳴り物を加えた読経をしていましたので、格別少なかった訳ではなかろうかと思います。
別に葬儀の場でしてもらう必ずしも必要はないのかもしれませんが、普段の月命日とかに、心の安らぎ、人の生きる意味とかを分かりやすく伝えてくれることがあってもよいのではないかと思います。
法話というのは、人生経験を積んでいるか、普段から勉強をしているかでないとなかなかできるものではないと思います。
それに、内容に加えて、普段の人間関係ができていないと、一般論で終わってしまって心に伝わらないかもしれませんね。
檀家が少なくなっている理由、というのは、先祖供養の風習が廃れている、というだけでなく、そうしたところにあるのではないかと思います。
宗教というのは、亡くなった人の供養だけでなく、生きている人がどう生きるべきかを伝えるのも大きな役割ではないかと思うのです。
本来の仏教、その開祖とも言える仏陀(ブッダ)は人が死んだ後の事はほとんど語っていない、という話も聞いたことがあります。
葬儀執行人ではない宗教人としての僧侶であれば、檀家離れも少なくなるのでは。
心の安らぎを求めて、寺院を参拝する人は相変わらず後を絶たないのですから。
エラそうなことを言って失礼しました。